ヤコブの手紙 1:21~

勉強し直し

やっとヤコブの手紙の一章まですんだ。
たぶん、もっと効率よくできたはずだと、今さら思う。

一応単語の意味を調べて、読むという作業までやった。
でも、今から一から勉強という感じ。その準備をした段階という気分だ。

「新約聖書ギリシャ語入門」をちょっと読むと、疑問に思っていたことについて、ちゃんと解説が書いてあった。
うーむ。まったく読んでない。
というか、僕はいったん自分なりにやってみて、それで結局分からなくて、具体的にこのあたりが分からないという疑問をもってからでないと、人の説明がまるで頭に入ってこないのだ。
ちゃっちゃと語彙を調べて、歌の歌詞のように覚えしてしまう方が効率が良さそう。
そうして、あとでじっくり疑問点を調べなおす。

形態論というのだろうか。
その語の語幹はこれで、語尾はこれで、どう変化していてという分析ができるようになりたいな。

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ヤコブ 1:27 父なる神のまえに清く汚れのない宗教

θρησκεία καθαρὰ καὶ ἀμίαντος παρὰ τῷ θεῷ καὶ πατρὶ αὕτη ἐστίν, ἐπισκέπτεσθαι ὀρφανοὺς καὶ χήρας ἐν τῇ θλίψει αὐτῶν ἄσπιλον ἑαυτὸν τηρεῖν ἀπὸ τοῦ κόσμου.

(口語訳) 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

θρησκεία /θρησκεία (宗教) 名詞 主格単数女性
καθαρὰ /καθαρός (清い) 形容詞 主格単数女性
καὶ /καὶ (そして) 接続詞
ἀμίαντος /ἀμίαντος (純粋) 形容詞 主格単数女性
παρὰ /παρά  (~において) 前置詞 (与格をともなって)において
τῷ /ὁ (英語のtheにあたる) 冠詞
θεῷ /θεός (神) 名詞 与格単数男性
καὶ /καὶ (そして) 接続詞
πατρὶ /πατήρ (父) 名詞 与格単数男性
αὕτη /οὗτος (彼女) 指示代名詞 主格単数女性
ἐστίν /εἰμί (である) 動詞 現在直接法 三人称単数
ἐπισκέπτεσθαι /ἐπισκέπτομαι (~を見舞う) 動詞 現在 中動相もしくは受動 異態 不定詞
ὀρφανοὺς /ὀρφανός (近親者を亡くした) 形容詞 対格複数男性
καὶ /καὶ (そして) 接続詞
χήρας /χήρα (やもめ、未亡人) 名詞 対格複数女性
ἐν /ἐν (~において) 前置詞
τῇ / (英語のtheにあたる) 定冠詞 与格単数女性
θλίψει /θλῖψις (苦痛) 名詞 与格単数女性
αὐτῶν /αὐτός (彼ら自身) 人称代名詞 与格複数男性
ἄσπιλον /ἄσπιλος (汚れない) 形容詞 対格単数男性
ἑαυτὸν /ἑαυτοῦ (彼自身) 再帰代名詞 三人称対格単数男性
τηρεῖν /τηρέω (続ける、守る) 動詞 現在能動 不定詞
ἀπὸ /ἀπό (~から) 前置詞
τοῦ / (英語のthe) 定冠詞
κόσμου /κόσμος (世界) 名詞 所有格・属格 単数男性

文章の構成が分かりにくい。
字下げで語の掛かり方を表現すると、たぶん、下記のような感じになっている。

θρησκεία (宗教 女性名詞)
 καθαρὰ (清い)
 καὶ (そして)
 ἀμίαντος (純粋)
   παρὰ τῷ θεῷ (神の前に)
          καὶ (また)
          πατρὶ (父)
αὕτη (彼女)
ἐστίν (である)

「父である神の前に清く純粋である宗教は、これ(彼女)である」と最初に言いきっている。
「θρησκεία 宗教」が女性名詞で、「これである」というときの代名詞が「αὕτη 彼女」なのでしょう。
続く文章に未亡人が出て来るので、彼女が誰を指しているのかちょっと混乱しました。
これであるという宗教の説明が後半の部分。

ἐπισκέπτεσθαι (見舞う)
 ὀρφανοὺς (孤児)
 καὶ (~と…)
 χήρας (未亡人)
 ἐν τῇ θλίψει αὐτῶν (苦境にある)

 ἄσπιλον (汚れない)
 ἑαυτὸν (彼自身)
τηρεῖν (守る)
  ἀπὸ τοῦ κόσμου. (世界から)

「苦境にある孤児と未亡人を見舞って、世から彼自身を汚れなく保つ」ような宗教であると言っているみたい。

「θρησκεία 宗教」という語は、礼拝や祈りなどの宗教的な「行為」を指しているとのことです(辻学著「ヤコブの手紙」p97)。
なので、口語訳のように「信心」と訳すとニュアンスがズレようです。
また、「見舞う」が指しているのは「面倒を見ること、世話をすること」であろうとのこと(同書p99)。
僕が受けた印象は、世話をするというよりは、資金的な援助をしなさいという意味かと思いました。なので、お見舞いの手土産をもって「見舞う」というニュアンスでいいのかなと。
文脈からすると、これが「心を欺いていない」状態であるということになります。
心に刻まれた「言葉」を行うということは、こういうことだと。
舌を制することなく、心を欺いている宗教はむなしい(1:26)。
舌を制して、心を欺かず、苦境にある人を助ける。神の前に…神から見て清く汚れのない礼拝とはそういうものだ、と。
ニュアンスとしては(イザヤ 58:6-7)が近い気がします。

(イザヤ 58:6-7)
わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、
しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、
裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。

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ヤコブ 1:26 舌を制することをせず

Εἴ τις δοκεῖ θρησκὸς εἶναι μὴ χαλιναγωγῶν γλῶσσαν αὐτοῦ ἀλλὰ ἀπατῶν καρδίαν αὐτοῦ, τούτου μάταιος ἡ θρησκεία.

(口語訳) もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。

Εἴ /εἰ  (もし~なら) 条件文
τις /τὶς (だれかが) 不定代名詞 主格単数男性
δοκεῖ /δοκέω (~と考える) 動詞 現在能動直接法 三人称単数
θρησκὸς /θρησκός (信心深い) 形容詞 主格単数男性
εἶναι /εἰμί (~である) 動詞 現在直接法
μὴ /μή (~でない) 分詞 主格
χαλιναγωγῶν /χαλιναγωγέω (くつわ、制御する) 動詞 現在能動分詞 主格単数男性
γλῶσσαν /γλῶσσα (舌) 名詞 単数対格女性
αὐτοῦ /αὐτός (彼自身) 人称代名詞 所有格・属格 単数男性
ἀλλὰ / (その上、さらに) 接続詞
ἀπατῶν / (欺く) 動詞 現在能動分詞 主格単数男性
καρδίαν / (心) 名詞 対格単数女性
αὐτοῦ /αὐτός (彼自身) 人称代名詞 所有格・属格 単数男性
τούτου / (この) 指示代名詞 所有格・属格 単数男性
μάταιος / (価値のない、役に立たない、ろくでもない) 形容詞 所有格・属格 単数男性
 / (冠詞) 定冠詞 主格単数女性
θρησκεία / (宗教、信仰) 名詞 主格単数女性

「もし誰かが信心深いと考えて、舌を御することなく、その上彼自身の心を欺くならば、この人の宗教はむなしい」という感じでしょうか。
単語の性がどう掛かっているのかいま一つ理解できませんが。なのでカンニング気味です。

「宗教θρησκεία」という語は、礼拝や祈りなどの宗教的な行為を指すそうです(辻学著「ヤコブの手紙」p97)。
他の用例では「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から」(コロサイ 2:18)の「礼拝」と訳されている語がそうです。
また「私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として…」(使徒 26:5)の「宗教」のもとにある語も同じです。

「鏡の譬え」(ヤコブ1:22-25)で、律法を見つめてとどまり、忘れず行うことが大事だと言った後に、すぐ舌を御するようにとヤコブは言います。
「その上、さらにἀλλὰ」という語がついているので、舌を制することなく、さらに「自分の心を欺いてる」ような宗教は無益なものだと言っているようです。
「心を欺く」というのは、まぁつまり鏡の譬えに出て来たように、律法を行わないことを指しています。
心と律法の関係として、ひょっとすると念頭にあるのはエレミヤ 31:33-34でしょうか。

 エレミヤ 31:33-34
 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
 すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。
 それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。
 わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

ヤコブは知恵は神に求めれば与えられると言い(1:5)、心に植えつけられた御言葉を受け入れるように(1:21)と呼びかけていますが、
エレミヤにある「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」が念頭にあったのでしょうか。

パウロの書簡などでも、時折キリスト教徒はもう罪から解放されて、罪を犯すことがないのだと主張しているようなところがあります。
もしくは、ヘブライ人への手紙の10章なども、生贄を廃することができる理由として、罪の赦し(つまり、もう罪から解放されている)ということを前提にしているようです。
このあたりは、微妙に同じことを語っているのでしょうか。
「それらの日」に、つまり、神が民と新しい契約を結ぶ時、…おそらく終末の日のことか。その時に、人々の心の中に律法を書き記す。
そうなれば、もう人は罪に問われることはない。もう神から罪は問われない、と。
ヤコブが「完全な自由の律法」と呼んでいるのは、このようなもののことでしょうか。

しかし、そこに「自分の心を欺いて」いる人がいる、とヤコブさんは言っている。
聞くだけで行わない者。
自分は信心深いと自負しながら(…ということは結構宗教的なことを行っているということですが)、舌を制することがない人。
そんな人が行っている宗教・礼拝などむなしいものだ、と。

ここで批判されているのは、ある種の「行い」のようです。
宗教について熱心に行っていたとしても、心を欺いている(心の律法を聞くだけで行わない)者の礼拝などつまらんものだと。
礼拝や儀式は行っているけど、心を欺く部分がある。
ニュアンスとしては、律法の趣旨に反して、形式的に行っている、ということでしょうか。たぶん、下記の言葉と同じ意味なのかなと。

 (マタイ 23:23)
 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。
 はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、
 律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。
 それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

神殿税に収穫の薬味を十分の一を測って納めるのに、肝心の心の部分が欠けてるではないかと。
こういう形式主義的な部分などよりも、法の主旨をつかまないといかんじゃないかというものでしょうかね。

舌を制することなく、何を言っているのか。自分では信心深いつもりの人が「心を欺いて」語ってしまうものとは何でしょう。

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欺く

「欺く」という語が続く(ヤコブ 1:26)にも出て来るので、「欺く」と訳されている語はどんな言葉なのかぁと。そういうメモです。
ちょっと検索すると三つ(παραλογίζομαι、ἀπατάω、πλανάω)ほど言い方があるようです。

【παραλογίζομαι】
(ヤコブ 1:22)「おのれを欺いて(παραλογιζόμενοι)、ただ聞くだけの者となってはいけない」という表現が出てきます。
この語(παραλογίζομαι)のλογίζομαιの部分はロゴス λόγοςから来た語で「勘定する」とか「熟慮する」などの意味のようです。
そこにπαράがつくと「欺く」という語になるみたい。
λογίζομαι
http://strongsnumbers.com/greek/3049.htm

παρά
http://strongsnumbers.com/greek/3844.htm

この(παραλογίζομαι)は他にコロサイ 2:4で用いられています。(※口語訳の訳文に元のギリシャ語を挿入してます)
(コロサイ 2:4) 「わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされる(παραλογίζηται)ことのないためである」

biblos.comのstrong's numbers 「παραλογίζομαι」
http://strongsnumbers.com/greek/3884.htm

Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon  「παραλογίζομαι」
http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Dparalogi%2Fzomai

【ἀπατάω】
ヤコブの手紙の続きに出てくる「欺く」(ヤコブ 1:26)は(ἀπατάω)という語です。

(ヤコブ 1:26)
もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いている(ἀπατῶν)ならば、その人の信心はむなしいものである。

他には下記の部分で使われています。
(エペソ 5:6) あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされては(ἀπατάτω)いけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
(ヤコブ 1:26) もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いている(ἀπατῶν)ならば、その人の信心はむなしいものである。
(テモテ 2:14) またアダムは惑わされ(ἠπατήθη)なかったが、女は惑わされて(ἐξαπατηθεῖσα)、あやまちを犯した。

(テモテ 2:14)の女は「惑わされて」(ἐξαπατηθεῖσα)という語の元の形は(ἐξαπατάω)で、(ἐκ)と(ἀπατάω)が組合わさっているみたい(もっと細かく分解して研究すべきなのでしょうけど)。
ローマ 16:18の(ἐξαπατῶσιν)が同じ語ですね。

(ローマ 16:18)
なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者ども(ἐξαπατῶσιν)だからである。

あとガラティアに出て来る(φρεναπατάω)という語も似てます。

(ガラテヤ 6:3) もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いている(φρεναπατᾷ )のである。

biblos.comのstrong's numbers 「ἀπατάω」
http://strongsnumbers.com/greek/538.htm

Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon 「ἀπατάω」
http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Da)pata%2Fw

【πλανάω】
「欺く」と訳されている語には他にも(πλανάω)というものがあるようです。ヤコブ 1:16「思い違い(をしてはいけない)」など。

(1ヨハネ 1:8)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くこと(πλανῶμεν)であって、真理はわたしたちのうちにない。

この語(πλανάω)は結構用例が多いみたい。
「だまされる」(黙示録 18:23)、「迷う」(マタイ 18:13)、「惑わす」(ヨハネ福 7:12)、「思い違いをしている」(マルコ 12:24)などに訳されています。

biblos.comのstrong's numbers 「πλανάω」
http://strongsnumbers.com/greek/4105.htm

Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon 「πλανάω」
http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Dplana%2Fw

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ヤコブ1:22-25 鏡の譬えの雑感

【鏡の譬え】
1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

鏡を見ることが何の譬えなのか、と考えはじめると迷路にはまる気がします。
鏡を見ることは律法を見つめることの譬えか。鏡には「真実」が写っているのか、生まれつきの顔を見つめるとはどういうことか、それと律法をみつめることとの違いは何かとか考えると混乱してきます。

譬えの文脈のなかでコントラストが効いているのは「すぐ忘れる」と「忘れずに実際に行う」という点です。
そこに注目すると、「鏡から立ち去る」⇒「忘れる」。「律法を見つめてとどまる」⇒「忘れない」という動作の違いが描かれていることになる。
そうなると鏡は律法を指しているように読める。
鏡/律法に「とどまる」のか「立ち去る」のかの違いだと考えるわけです。

鏡が律法の譬えであるならば、ヤコブは鏡にとどまっているべきだと言っているのでしょうか。
自分の顔をみつめているべきだとヤコブは言っているのでしょうか。
いや、「鏡に顔を映して見る人」はすぐ忘れるからこそ「ただ聞くだけの者」に似ているのである。

「ただ聞くだけのもの」は「鏡に顔を映して見る人」に似ているとヤコブは最初に言っている。
だから、鏡に顔を映している人は、基本的には「聞くだけ」の人なのです。
そう読んで行くと、鏡が律法を指している譬えなのかはっきりしなくなる。

「すぐ忘れる」ことがいけないのか。すぐ忘れない人は「律法」をみつめてとどまるというけれど。
では、鏡は一体何の譬えなの。
鏡は「真実」の姿を映せているのでしょうか。鏡は虚構しか映していないから律法と違ってすぐ忘れてしまうことになるのでしょうか。
「生まれつきの顔」を鏡に映しているということが「おのれを欺いて」(1:22)いるということなのでしょうか。つまり、鏡の虚構を真実を信じ込んでしまっていると。
そう考えてよいならば、鏡をみつめてばかりで律法を見つめていないというのは、真実を見ていないじゃないかという批判のニュアンスをもっていることになるでしょうか。

鏡が真実を映していないと考えると、違和感があるのは「生まれつきの顔」という表現です。
生まれつきの顔を見ているのに、すぐ自分の顔を忘れるとはどういうことでしょうか。
『生まれつき』の顔という表現は、何となく鏡のなかに『生じた』彼の顔と言っているような気もします。(語学的な根拠ゼロのいい加減な話ですが)
鏡のなかに生じた顔…つまり虚像を見つめていても、自分が本当はどのような顔をしているのかしっかり理解することはできず、すぐ忘れてしまうのだ、と言っている感じもします。
鏡が「真実」を映していないと考えると、「おのれを欺いて」が理解しやすくなるのが良い点です。

この譬えは、「鏡に自分の顔を映して見る人」が「聞くだけ」であることを批判しています。その点が重要なのではないでしょうか。
鏡ばかり眺めている人も、律法を聞くには聞いている。
いや、ひょっとしたら鏡を見てオシャレしている人は裕福で、しっかり教育を受けていたのかも知れない。
だから、律法についてよく聞いていたのかも知れない。
でも、彼らは「聞くだけで行わない」のだ。

鏡を見つめる者というのが、ちょっと裕福な人たちを指しているとすると、ニュアンスは取りやすくなる感じです。
教会内の貧しい人たちを小馬鹿にして、鏡で自分の顔や格好ばかり気にしている人々。

僕はちびちびヤコブの手紙を読んでますが、結構頻繁に貧富の差の構図が出てくるように感じます。
律法というのは枷になるので、たとえばディアスポラの人々が安息日を守っていたら、その分商売に影響しそうです。
単純に安息日も働いている人たちの方が競争上は有利で、商売で儲けることができるように思えます。
律法を守って細々と生活している人々と、大きな商売をして律法をちょいちょい無視する人々がいる、という構図ができていたのでしょうか。
ヤコブの手紙は、商人についても批判しているようですが。

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ヤコブ 1:25

ὁ δὲ παρακύψας εἰς νόμον τέλειον τὸν τῆς ἐλευθερίας καὶ παραμείνας, οὐκ ἀκροατὴς ἐπιλησμονῆς γενόμενος ἀλλὰ ποιητὴς ἔργου, οὗτος μακάριος ἐν τῇ ποιήσει αὐτοῦ ἔσται.

(口語訳) これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

 / (定冠詞) 
δὲ / (しかし) 接続詞
παρακύψας /παρακύπτω (かがむ、見る) 動詞 - アオリスト 能動 分詞 主格単数男性
εἰς /εἰς (~に) 前置詞
νόμον /νόμος (法) 名詞 - 対格単数男性
τέλειον /τέλειος (完全な) 形容詞 - 対格単数男性
τὸν /ὁ (定冠詞) 対格単数男性
τῆς /ὁ (定冠詞) 所有格・属格単数女性
ἐλευθερίας /ἐλευθερία (自由) 所有格・属格単数女性
καὶ /καὶ (接続詞) 
παραμείνας /παραμένω (~の許にとどまる) 動詞 - アオリスト能動分詞 主格単数男性
οὐκ /οὐ (~ない) 分詞 主格
ἀκροατὴς /ἀκροατής (聞き手) 名詞 - 主格単数男性
ἐπιλησμονῆς /ἐπιλησμονή (怠る、忘れる) 名詞 - 所有格単数女性
γενόμενος /γίνομαι (~になる) 動詞 - 二人称中動相 異態 分詞 主格単数男性
ἀλλὰ /ἀλλά (しかし、にも関わらず) 
ἔργου /ἔργον (行い) 名詞 - 所有格・属格単数中性
ποιητὴς /ποιητής (行い手) 名詞 - 主格単数男性
οὗτος /οὗτος (彼) 指示代名詞 主格単数男性
μακάριος /μακάριος (幸い) 形容詞 - 主格単数男性
ἐν /ἐν (~において) 前置詞
τῇ /ὁ (定冠詞) 与格単数男性
ποιήσει /ποίησις (行い) 名詞 - 与格単数男性
αὐτοῦ /αὐτός (彼自身) 人称代名詞 - 所有格・属格単数男性
ἔσται /εἰμί (~となるだろう) 動詞 - 未来直接法 三人称単数

「しかし、自由の完全な律法を見て、かつとどまり、忘れる聞き手でなく、行いの行い手であるならば、彼自身の行いにおいて幸いとなるであろう」という感じか。

とてもクドい文章になるけど。
「行いの行い手」がクドいなぁ。「行いを為す者」とした方がよいか。ἔργουエルゴンとποιητήςポイエテスでは、どうせ語幹が違うのだし。

「~において」という言い方が結構印象に残ります。
ここの「行いにおいて」は「行いにおいて幸いとなるであろう」となってます。
「信仰において」もあります「疑うことなく信仰において求めなさい」(1:6)のような言い回しですね。
「信仰において」という表現はどうも違和感があるので、口語訳の「信仰をもって願いなさい」のように訳すのがいいのかなと思ったりします。
でも、「行いにおいて幸いとなるであろう」は、何となく意味がとりやすい感じがします。…といって、巧く説明できるわけでもないですが。
ただ口語訳「行いによって祝福される」は、なんとなく行き過ぎな気がする。
新共同訳の「このような人は、その行いによって幸せになります」がしっくりくる感じです。

ちょっと文章が長くなると分からないことが続出するなぁ。
文法などまるで知らず、単語をパズルのように並べて文章らしきものを組み立てているだけになってしまう。
分からないところは、まぁ追々調べていけば、いつの日か分かる日がくるかも。…前もそんなこと書いたなぁ。

信仰しているわけでもないし、語学力などまるでないけど、ちびちびと一つひとつの単語を調べて並べながら考えていると、新共同訳・口語訳などが随分上手に訳しているなぁと感じます。
もちろん、それも全然分かってないのだろうけど。
普通に読んだら一瞬で読み終わってしまうような短い文なんだけど、単語の意味など調べているとそんな一語づつを丁寧に読むことになるのですが。
その経験自体が面白い。全然訳せてないし、カンニングだらけだけど、それでも一語づつ読んでいくと、読んだ時の感覚は随分違う。

序盤は結構丸暗記で来ていたのだけど、このあたり暗記してない。
ギリシャ語は変化が多いので、出て来る単語だけ覚えようかなと思っていたのだけど。それもできてないな。
丸暗記した部分の単語は、どこか別のところで出て来ると「あぁこの語はこういう風に使われるんだ」などと思ったりする。
と言っても…まだ、ほんのわずかな語しか読んでないけど。

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ヤコブ 1:24

κατενόησεν γὰρ ἑαυτὸν καὶ ἀπελήλυθεν καὶ εὐθέως ἐπελάθετο ὁποῖος ἦν.

(口語訳) 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

κατενόησεν /κατανοέω (見つめる、観察する) 動詞 - アオリスト 能動 直接法 三人称 単数
γὰρ /γάρ (なぜなら~) 接続詞
ἑαυτὸν /ἑαυτοῦ (彼自身) 再帰代名詞 - 三人称 対格 単数 男性
καὶ /καὶ (そして) 接続詞
ἀπελήλυθεν /ἀπέρχομαι (立ち去る) 動詞 - 第二完全 能動 直接法 三人称 単数
καὶ /καὶ (そして) 接続詞
εὐθέως /εὐθέως (すぐに) 副詞
ἐπελάθετο /ἐπιλανθάνομαι (忘れる) 動詞 - 第二アオリスト 中動相 異態動詞 直接法 三人称 単数
ὁποῖος /ὁποῖος (~ように、~のような) 形容詞 - 主格 単数 男性
ἦν /εἰμί (~である) 動詞 - 未完了 直接法 三人称 単数

「つまり彼自身を見つめた。そして立ち去った。すると、すぐに彼がどのようであったか忘れた」という感じ。

ヤコブ 1:11の時もそうでしたが、一般的な譬え話をギリシャ語では過去形・アオリストで語るものなのでしょうか。
感覚的には違和感があります。
普通ギリシャ語では一つの文章に動詞が一つとのことなので、「見つめる」「立ち去る」「忘れる」「~である」にあたる語はそれぞれ別の文章であり、それを「そして」でつないでいる。
「彼自身を見つめた」のところに「なぜなら γὰρ」が入っているので、鏡に顔を映している人が「聞くだけで行わない人」に似ている理由を説明しているようです。
「なぜなら彼自身を見つめたからである」とするべきなのでしょうか。
「聞くだけで行わない人に似ている」のは「彼自身を見つめたからである」と考えるにはちょっと理由として足りないので、3つの文章でワンセットにして理由を表しているということでよいのでしょうかね。
そうであれば、
「つまり彼自身を見つめた。そして立ち去った。すると、すぐに彼がどのようであったか忘れたからである」
と訳しても良さそうな感じです。

「ἦν ~である」は分詞じゃないのか。biblos.comにはそうは書いてないけど。
おかしいなと思うということは、理解しそこなっている。そして、たぶん訳も間違っている。
でも、どこがどうおかしいのか分からないけど。
追々調べていけば、そのうち何が間違っていたのか分かる日も来るさ。

内容的にはすぐに忘れてしまうことがいかんということ。
言葉を聞くだけで行わない人は、鏡を見る人に似ている。
鏡を見ても、そこから離れると、すぐ忘れてしまうから。
…うーむ。実に微妙な譬えです。
僕の感覚では、鏡をしっかり見ているならば、そう簡単に自分の顔は忘れないと思う。
でも、すぐ忘れるとヤコブさんは言うんだなぁ。
そうなると、これがちょっと皮肉った言い方をしているように僕は感じるのですね。
「鏡ばっかり見ているのは、鏡を見てないと自分が誰だか分らなくなるとでも思ってるんじゃないの?」と。
当時、鏡がどれぐらいの価格で手に入ったのか知りませんが、鏡を見つめてばかりいる人は格好を気にしているわけでしょう。
そういう人に対して、いい格好をして着飾ったところで、肝心の自分自身の在り方が見えてないじゃないかと言ってるのかな。
そこそこお金のある人は、鏡を見て着飾っていて、ひょっとするとそのファッションは流行りの…誰かの真似ごとかも知れなくて、そうして着飾っているのはいいけど、貧しい人を踏みにじったりしないようにと教えている律法はないがしろにされているのではないかとヤコブんさんは苦言を呈している感じがします。
(ヤコブ 2:2)では「金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人」が登場しますが、僕の勝手なイメージでは「金の指輪」をしてくるほどの金持ちはいなかったのではないかなと感じます。これは金持ちをちょっと誇張して、描いているのかも。
それよって金の指輪をしてくるほどの金持ちでもないのに、格好ばかり気にしている中途半端に裕福な層に、「鏡ばっかり見ていないで律法の精神に立ち返りなさい」と言っているイメージがあります。

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ヤコブ 1:23

ὅτι εἴ τις ἀκροατὴς λόγου ἐστὶν καὶ οὐ ποιητής, οὗτος ἔοικεν ἀνδρὶ κατανοοῦντι τὸ πρόσωπον τῆς γενέσεως αὐτοῦ ἐν ἐσόπτρῳ·

(口語訳) おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

ὅτι /ὅτι (英語のthatの用法に近い。becouse、sinceとも訳されている) 接続詞
εἴ /εἴ (もし~なら) 条件文
τις /τις (誰か) 不定代名詞 - 主格 単数 男性
ἀκροατὴς /ἀκροατής (聞く者) 名詞 - 主格 単数 男性
λόγου /λόγος (言葉) 名詞 - 所有格・属格 単数 男性
ἐστὶν /εἰμί (ある) 動詞 - 現在直接法 三人称単数
καὶ /καὶ (そして) 接続詞
οὐ /οὐ (~ない) 分詞 主格
ποιητής /ποιητής (行う者) 名詞 - 主格 単数 男性
οὗτος /οὗτος () 指示代名詞 - 主格 単数 男性
ἔοικεν /ἔοικα (似ている) 動詞 - 現在能動分詞 三人称 単数
ἀνδρὶ /ἀνήρ (人) 名詞 - 与格 単数 男性
κατανοοῦντι /κατανοέω (見る) 動詞 - 現在能動分詞 与格 単数 男性
τὸ /ὁ (冠詞) 定冠詞
πρόσωπον /πρόσωπον (顔) 名詞 - 対格 単数 中性
τῆς /ὁ (冠詞) 定冠詞
γενέσεως /γένεσις (オリジナルの、創られた) 名詞 - 与格 単数 女性
αὐτοῦ /αὐτός (彼の) 人称代名詞 - 与格 単数 男性
ἐν /ἐν (~に) 前置詞
ἐσόπτρῳ /ἔσοπτρον (鏡)  名詞 - 与格 単数 中性

「もしだれか言葉の聞き手でかつ行い手ではないものがいれば、彼は鏡のなかに創られた顔を見る人に似ている」という感じでしょうか。

口語訳が「おおよそ」と訳しているのはなぜでしょう。一般的な譬え話なので、分かりやすいようにつけたのでしょうか。つまり「~は…に似ている」を「おおよそ~はちょうど…のようである」と訳しているのかな。

「生れつきの顔 τὸ πρόσωπον τῆς γενέσεως 」が難解です。γενέσεωςは生まれつきという意味なのでしょうか。
英語力がないためコンコルダンツを読んでもそんな意味なのか理解できない。
γενέσεωςをクリックして開くのがそのページです。
僕のような全くの素人が読むと、「ありのままの顔」という意味ではなく、鏡のなかに「生じた顔」(映っただけの虚像)と言っているような気もします。素人判断の誤りでしょうか。

鏡のたとえとしては、パウロの書簡に下記のようなものがあります。

(1コリント 13:12) わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

やはり鏡は真実そのものではなく、代用品として理解されています。
当時の鏡の品質にもよるのかも知れませんが、暗くておぼろげにしか映っていないものだったのかも知れません。

ヤコブ 1:23が鏡のなかに「生じた顔」という意味だと仮定してみると。
鏡のなかに「生じた」顔を見つめていても、それはおぼろげな像なので当てにならない、活動しはじめると自分の顔が分からなくなってしまうのだと言ってることになるでしょうか。

ですが、口語訳・新共同訳とも「生れつきの顔」と訳しているし、
辻学氏の注解書も、「τὸ πρόσωπον τῆς γενέσεως 」は「自分の生来の顔」という意味で、「τῆς γενέσεως」は「自然な」とか「生まれつきの」という意味だろうと書かれていますので、こちらがきっと正しいのでしょう。
18節の「我々を産んだ言葉」を受けている可能性を示唆されています。「τῆς γενέσεως」はわざわざ言い足しているようですがその解釈が難しいようです

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ヤコブ 1:22

Γίνεσθε δὲ ποιηταὶ λόγου καὶ μὴ μόνον ἀκροαταὶ παραλογιζόμενοι ἑαυτούς.

(口語訳) そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

Γίνεσθε /γίνομαι (なりなさい) 動詞 - 現在 中動/受動異体 命令法 二人称
δὲ /δὲ (しかし) 接続詞
ποιηταὶ /ποιητής (行う者) 名詞 - 主格 複数 男性
λόγου /λόγος (言葉) 名詞 - 所有格・属格 単数 男性
καὶ /καὶ (そして、また) 接続詞
μὴ /μὴ (~ない) 不変化詞
μόνον /μόνος (ただ) 副詞
ἀκροαταὶ /ἀκροατής (聞く者) 名詞 - 主格 複数 男性
παραλογιζόμενοι /παραλογίζομαι (欺く) 動詞 - 現在中動/受動異体 分詞 - 主格 複数 男性
ἑαυτούς /ἑαυτοῦ (彼自身) 再帰代名詞 - 三人称 対格 複数 男性

音声は語順がちょっと違いますね(ἀκροαταὶ μόνονとなってます)。

「また、彼自身を欺く単なる聞き手ではなく、言葉を行う者となりなさい」という感じでしょうか。

ここから鏡の譬え(ヤコブ 1:22-25)が出てきますが、分かりにくい譬えです。

(ヤコブ 1:22-25)
22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

たぶん、鏡を眺めてばかりで何もしない人をイメージしているのではないかと思います。
鏡に「生まれつきの顔」を映して見ているつもりの者は、「おのれを欺いて、ただ聞くだけの者」に似ている。
そのような人は鏡から離れると、自分の姿を忘れてしまうからである(「からである γὰρ」が24節にはある)
鏡ではなく、律法を見つめてとどまる者は、忘れることなく行う者である。

たぶん、鏡のなかの虚像を自分の本当の姿だと思い込んでいると(おのれを欺いて)、本質から外れたものを求めているだけなので行動に結びつく活力を得ることができず、聞くだけに陥るという意味かと。
鏡のなかの「自分の生まれつきの顔」というのが虚像に過ぎないと考えると、そのように解釈できそうです。
1:21「心に植えつけられている御言」と呼んでいるのですから、神の言葉はすでに自分自身と一体になったものであり、何か押しつけられた重荷であるとは捉えられてはいない。

文脈はそのまま貧しい者を差別してはならないというものに向かいます。
ヤコブの手紙の著者にとって、神の言葉を行うことは、貧しい者を差別したりしないことと直結しているようです。
「完全に」律法を実行するというと、実行不能な話としてとらえられそうですが、そのような文脈で語っているようすはないです。
「自由の律法」(1:25、2:12)と呼んでいますので、枷として理解はされていない。
ヤコブの時代に、貧者を守るものが律法しかなかったならば、それは守られねばならないものと切実に感じられたのかも知れません。

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ヤコブ 1:21

διὸ ἀποθέμενοι πᾶσαν ῥυπαρίαν καὶ περισσείαν κακίας ἐν πραΰτητι, δέξασθε τὸν ἔμφυτον λόγον τὸν δυνάμενον σῶσαι τὰς ψυχὰς ὑμῶν.

(口語訳)  だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

διὸ / διὸ (だから、従って) 接続詞
ἀποθέμενοι / ἀποτίθημι (捨てる) 動詞 アオリスト 中動相 分詞 主格複数男性
πᾶσαν / πᾶς (すべて) 形容詞 対格単数女性
ῥυπαρίαν / ῥυπαρία (汚れ) 名詞 対格単数女性
καὶ / καὶ (そして) 接続詞
περισσείαν / περισσεία (残る、余る、大量) 名詞 対格単数女性
κακίας / κακία (悪いこと) 名詞 所有格・属格 単数女性
ἐν / ἐν (前置詞 in、by、with) 前置詞
πραΰτητι / πραΰτης (謙虚) 名詞 与格単数女性
δέξασθε / δέχομαι (~を受け入れる) 動詞 アオリスト中動相命令法
τὸν / ὁ (冠詞) 冠詞 対格単数男性
ἔμφυτον / ἔμφυτος (持って生まれた、植えられる、埋め込まれた) 形容詞 対格単数男性
λόγον / λόγος (言葉) 名詞 対格単数男性
τὸν / ὁ (冠詞) 冠詞 対格単数男性
δυνάμενον / δύναμαι (~できる) 動詞 現在中動相分詞 対格単数男性
σῶσαι / σῴζω (救う) 動詞 アオリスト能動直接法
τὰς / ὁ (冠詞) 冠詞 対格複数女性
ψυχὰς / ψυχή (魂) 名詞 対格複数女性
ὑμῶν / ὑμεῖς (あなたがたの) 2人称 所有代名詞 所有格・属格 複数

「ἀποθέμενοι 捨てる」という語が中動相アオリスト。
「アオリスト分詞は、文の主動詞が示す行為に対して、相対的に先行し、かつ、不特定な一回の行為を表すのが原則である。しかし、文脈によっては、現在分詞と同じように、主動詞と同時進行の行為を示すこともある」とのこと(「新約聖書ギリシャ語入門」p95)。
「Aをして、Bをした」というような文章の「Aをして…」にあたる表現のようです。
ここだとつまり、「…謙虚に捨てて、受け入れなさい」という構文になるようです。

口語訳だと「すなおに」にあたる語はπραΰτητι 。
「すなおに受け入れなさい」と訳されてますが、ネストレだと句読点が入ってるので前半の文章に掛かる気がする。つまり「すなおに捨てて」と訳すことになりそうですが。
辻学氏の注解書を見ると、πραΰτης は「柔和さ」という意味なのだそうです。
前節の「怒り」と対極にある徳目として挙げられているので、文脈からして「柔和さのうちに」は「捨て去って」よりも、「受け入れよ」の方に掛かると見た方が良いとのこと。
新共同訳は「素直に捨て去り」になっているので、ネストレに従っているようです。

「従って、すべての汚れとあり余る悪を謙虚に捨てて、あなたがたの魂を救う言葉を受け入れなさい」というに訳せるでしょうか。

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