ヤコブの手紙 1:11~20

ヤコブ 1:20

ὀργὴ γὰρ ἀνδρὸς δικαιοσύνην θεοῦ οὐκ ἐργάζεται.

(口語訳) 人の怒りは神の義を実現しないからです。

ὀργὴ / ὀργὴ (怒り)
γὰρ / γὰρ (~だから)
ἀνδρὸς / ἀνήρ (人)
δικαιοσύνην / δικαιοσύνη (義 正しさ)
θεοῦ / θεός (神)
οὐκ / οὐ (~ない)
ἐργάζεται / ἐργάζομαι (~をなす、実現する、作り出す)

訳としては1:20は「人の怒りは神の義をなさないからです」という感じか。

ἐργάζεται は、「行い」「働き」を意味する ἔργον エルゴンと同じ語幹なんだな。似た語( κατεργάζεται )が1:3にも出て来る。
ガラ 3:5に「ἐνεργῶν エネルゴン」が「働かせるもの」という意味で出てきます。新共同訳と口語訳では分かりにくいので、佐竹明訳で引用します。

(ガラ 3:5 佐竹明訳)
一体あなたがたに霊を与え、あなたがたの間で力を働かせるもの(=神)[がそれを行うの]は、律法のわざに基づいてか、それとも信仰の説教にもとづいてか。

「働かせるもの」というのが「ἐνεργῶν エネルゴン」で…あぁこれはエネルギーの語源なんだとやっと気づきました。
エルゴンって意外とポピュラーな言葉だったのだなぁと。
【アルク】の語源辞典で「energy」を調べるとラテン語・ギリシャ語が語源になったとあります。
アレルギーも下記のように同じ語源だそうです。

allergy アレルギー
[語源] Gk. allos(=他者の、異物の)+ergon(=働き) = all+erg
(アルク 語源辞典より)

「義」に当たる語は、正しさを意味する語です。
終末における神の裁きにおいて、正しいとみなされるという意味ですね。
「神の義」というと、神が正義であるというような意味になりそうですが。たぶん、神が義しいことは大前提になっているはず。田川氏の訳注によると「神の義」は「神が神たることを示す」という意味であると解説しています。
この「神の義」という表現は(ローマ 1:16-19)にもあります。こちらは田川訳で引用します。

(ローマ 田川建三訳)
1:16 すなわち、私は福音を恥としない。それはすべて信じる者にとって、第一にユダヤ人にとって、またギリシャ人にとっても、救いへといたらせる神の力である。
1:17 何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように。
1:18 すなわち、神の怒りは真理を不義においてはばもうとする人間たちのすべての不敬虔、不義に対して天から啓示される。
1:19 何故なら、神について知りうることは、彼らのうちに明らかだからである。神が彼らに対してそれを顕わし給うたのだから。

田川訳だと、神の力が「信から信へと啓示される」(1:17)という説明は、「不義においてはばもう」とする人の「不義」に対して…啓示される」(1:18-9)とが対応しているのが分かりますね。
「信から信へ」の方は僕には難解ですが、神の怒りが不義に対して啓示されるというのはつかみやすい感じです。

この「信から信へ」の部分は解釈が難しく、新共同訳、口語訳はかなり違っています。田川訳はストレートな訳であり、意味がつかみやすいようです。
田川訳の訳注によると、「信」はギリシャ語の pistis の訳語とのこと。信仰(人間が神ないしキリストに対して持つ信仰)と伝統的に訳されているが、人間のもつ「信仰」の意味とは限らないとのこと。語の本来の意味は、「信頼」「誠実」「信実」といった意味だそうです。「神の pistis 」は、「神は誠実であること」「神の信実」「神には偽りがない」の意味だそうです。
相手に対して信頼を保つとすれば、この語は、「相手を信じること」という意味にもなり、その場合は「信仰」と訳せるすこともできるとのことです。(「訳と註 3」 p166)
「神の義」については諸説を紹介しながら、バルトの「神が神たることを示すということ」という理解が妥当であるとしてます(「訳と註 4」p115)

おそらく、ヤコブの手紙の「神の義」という語もそのパウロの用法を踏まえて理解した方がよいのでしょう。
なので、「神の義」は「神が神たることを示すということ」という意味で理解しておきます。人間が怒ったところで正義とは限らないということでしょうか。

というか、これは旧約聖書の伝統的なスタンスなのか。
パウロも同じ趣旨のことを言ってますね。

(ローマ 12:19)
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

パウロが書いてあると言っているのは、申命記を指しています。
(申命 32:35)
わたしが報復し、報いをする/彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る。

ヤコブの手紙は、パウロを踏まえて理解するべきなようですので、ちびちびパウロも読んでますが、なかなか難しい。

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ヤコブ 1:19

Ἴστε, ἀδελφοί μου ἀγαπητοί· ἔστω δὲ πᾶς ἄνθρωπος ταχὺς εἰς τὸ ἀκοῦσαι, βραδὺς εἰς τὸ λαλῆσαι, βραδὺς εἰς ὀργήν·

(口語訳) 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

Ἴστε / οἶδα 知る 動詞 - 完全能動 命令法 - 二人称 複数
ἀδελφοί / ἀδελφός  兄弟よ 名詞 - 呼格 複数 男性
μου / ἐγώ  私の 人称 / 所有代名詞 所有格・属格
ἀγαπητοί / ἀγαπητός  愛しい 形容詞 呼格 複数 男性
ἔστω / εἰμί  動詞 現在 能動 命令法 三人称単数
δὲ / δέ しかし、また 接続詞
πᾶς / πᾶς 全て 形容詞 主格 単数 男性
ἄνθρωπος / ἄνθρωπος  人 名詞 主格 単数 男性
ταχὺς / ταχύς  早い 形容詞 主格 単数 男性
εἰς / εἰς  前置詞 (場所、時間、目的、結果の到達点や入口を示す)
τὸ / 冠詞 対格 単数 中性
ἀκοῦσαι / ἀκούω  聞く 動詞 アオリスト 不定法
βραδὺς / βραδύς  遅い 形容詞 主格 単数 男性
εἰς / εἰς  前置詞 (場所、時間、目的、結果の到達点や入口を示す)
τὸ / 冠詞 対格 単数 中性
λαλῆσαι / λαλέω  話す 動詞 アオリスト 不定法
βραδὺς / βραδύς  遅い 形容詞 主格 単数 男性
εἰς / εἰς  前置詞 (場所、時間、目的、結果の到達点や入口を示す)
ὀργήν / ὀργή  怒り 名詞 対格 単数 女性

Ἴστε は「見よ」「わきまえよ」というような意味のようです。
「聞く」「話す」は動詞です。冠詞がついているので、「聞くこと」「話すこと」というような感じになるのかな。あるいは「聞く者」「話す者」か。
「聞く」「話す」がアオリストなので、「聞いた者」「話した者」になりそうですが。
「早寝、早起き」のような慣用句に近い気がします。「人はみな、早く聞き、遅く話す者であれ」という感じ。

最後の「怒り」は名詞の対格なので、「怒りを」と訳せる。
δὲ は話題が変わったのでついているようす。「また」と話を変える感じか。

「また、知っておきなさい、愛する兄弟たちよ、人はみな早く聞き、遅く話し、怒りを遅くなさい」という感じでしょうか。

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創造について3 (例によって懐疑的な話です)

ヤコブ 1:18の創造信仰に関連して、…これはその理解の試みです。

時々「創造科学」という疑似科学を論じているサイトを見かけたりします。
それらは創世記の記述を科学的に検証するなどといいながら、結局現実を認めず、批判を認めないだけのようです。
つまり知的な「誠実さ」を欠いているようです。
現実をちゃんと見れないのならば、聖書なんて解釈の難しい本はちゃんと読めないのではないかと心配になりますが。

僕は少々ひねくれているので、創造科学の科学になってないという知的な「不誠実さ」に対して、その「不誠実さ」をマネたくなってきます。
こちらは逆に宗教的ソーカル論文みたいなものをつくって、全く信仰してないのにその手の用語をちりばめて、お説教レトリックだけで作った疑似信仰テキストをつくりたくなる。
しかもちょっと感動的につくってやる。
そしてあとから、デタラメ書いただけでしたと公表して、「その手の作文などチョイチョイと作れるものでして、まぁ宗教の本質などと言うのはそのレトリックで説明し尽くせるようなモノなのですよ」と言い放つわけです。
宗教的な作文などそのレトリックでいくらでも再現可能だと。そのテキストにかけているのは「誠実さ」だけだ。
でもテキストに「誠実さ」が欠けていることはあとでちゃんと認めるわけですが、宗教的な人が「誠実か」どうか知りませんよ、と。

面倒くさいし、悪趣味だし、そんな不誠実なことしてもしょうがないし、(…感動的どころか、つまらん作文しかできないと癪だし)。
だから、やらないけど。
でも創造科学についての記事を読むたびに、そんなことを悶々と考えていたりします。

でも、創造信仰に反対しているつもりはないのですけどね。
創造信仰について理解しようとするときに、この創造科学などへの嫌悪感が邪魔して感情的に反発してしまうのです。
そんなもの無視して、ヤコブの手紙の著者が一体どのように考えているのかを淡々と問うていけばいいのですが。
僕は勝手に読んでるだけなので、信仰者さんには関係ない話でしょうけど。

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創造について2 (また懐疑的な話です)

ヤコブ 1:18に創造信仰があります。
このブログはなるべく書かれていることをそのまま理解して行こうと思っているので…これはその理解の試みです。
でも、僕のような非信者が他人の信仰を理解するというのは難しいことです。

アモス 9:7のように他民族をも支配する神という認識から、世界を支配する神という認識が生まれ、
人間を塵から生み出したように、神は世界を創造したと古代人は考えたのだろうか、と思う。

他民族をも支配する神というのは、つまり敵対する部族を差し向けてくるのは実は自分達の神である、ということも意味する。
そのような神であると理解するためにも色々前提がある。

 アモス 3:1 (関根訳)
 地のすべての族の中から
 わたしはただ君たちだけを選んだ。
 それ故わたしは君たちの罪を
 みな君たちの上に報いよう

実に嫌な選ばれ方である。
ヤハウェに背くと、おそるべき報いがあるぞ、というこの威嚇は、上記の他部族を敵として差し向けてくる神という認識とよく合致する。
アモスの預言は、数々の禍を予言しており、それがヤハウェによるものであることを宣言しています。
ヤハウェというのは、ありていに言えば禍の神です。
これらの禍は、貧しい者を苦しめた上流階級の人々に降りかかるとアモスは言っているようです。
5:21-27からすると、祭儀を行っていた宗教指導者に対しても容赦ない批判をしてるようです。
アモスはそういう人たちの権威を恐れなかったのでしょうか。
アモスは「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない」(7:14)とのこと。この言い方は当時預言で食ってる人たちがいて、そういう人たちとは違うと言っているニュアンスのようです。
おそらく当時の職業的な預言者というのは金持ちに呼ばれて報酬を得て、彼らに祝福と栄光の未来を予言してやったのでしょう。
それに対してアモスのような預言は、だれも喜んで欲しがらないわけですが、アモスとしても「あんな連中と一緒にしてくれるな」という意識があるようです。
それが高じてか(5:21-27)では祭儀について真っ向から否定してます。

 (アモス 5:25)
 イスラエルの家よ、あなたがたは四十年の間、荒野でわたしに犠牲と供え物をささげたか。

つまり、重要なのは祭儀ではない。
これは結構面白いことを言ってます。ユダヤ教のもっとも古い預言にこのようなものがあるのですね。
たぶん、イエスも同じような批判を行っています。当時の宗教的権威が祭儀を重んじても、正義を重んじていないことを批判していたのでしょう(祭儀の形式を重んじることへの批判としてはマタイ 23:23)。
ヤコブの手紙の著者のトーンにも、近いものを感じます。貧しい者たちを助けないで、どうこういってもしょうがないというスタンスです。
ヤコブの手紙の著者は、律法について述べてはいますが、とくに祭儀について問題にしているようすはないです。
まぁそれを言ってしまうとパウロとの争点がなくなってしまう気もしますが。

富者への批判も、アモスとヤコブの手紙の著者で共通している。イエスもそうです。
別に富者・上流階級の人々が呪われているなどと言いたいわけではないのですが、これは「恐るべき神」という存在の特徴なのだと思うのです。
古代の人々は、権力者の暴戻や富者によってこき使われるなどということがたびたびあったのでしょう。
それらの社会的な強者に対抗するには、「恐るべき神」という存在でないと対抗できないのでしょう。
出エジプト記の世界ですわ。パロに対抗する強力な禍の力は、奴隷たちの救いになる。

禍の神という性質から、敵に対する禍を与える神、戦争の神となる。
「万軍のヤハウェ」は、星霊軍や天使などを指してますが、「万軍」(ツェバーオース)は神の名と結合してないものは、イスラエルの古い召集軍を指しているとのこと(26ヵ所あるらしい)。(M.ウェーバー「古代ユダヤ教」p278)
「万軍のヤハウェ」という表現は古い時代の戦争、ヤハウェが農民召集軍を率いて戦ったと伝えられる時代を栄光化しているそうです。

古い戦争において農民が勇敢に闘った時代を栄光化する、というのはどういうことか。
当時、金をかけて武装することができる貴族が台頭し(同上p74~)、農民たちは没落し債務奴隷化てきたことを意識せざるを得なくなっていくにつれ、預言者たちの意識のなかでは、かつての信仰的な戦士としての時代が栄光化されてあらわれてきていたのだろう、とのことです。
今は没落しているが、かつて自分達は「万軍のヤハウェ」のもとで勇敢に闘ったのだ、と。

 (ヤコブ 5:4)
 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、
 支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。
 そして、刈入れをした人たちの叫び声が、
 すでに万軍の主の耳に達している。

恐ろしい神としての性質は、ヤコブの手紙の著者のなかで結構そのままの性質で残っているように思えます。
預言者の精神とでもいうべきものでしょうか。

ともかく、この禍の神という性質があるからこそ、神が敵を差し向けてくるということにも説得力があったわけでしょう。
そして、敵を差し向けてくるということに説得力があるからこそ、他部族をもコントロールしている神として理解され、世界を支配する神として理解された。

捕囚などによって否応なしに異質な「世界」を突きつけられる経験を経て、自分達がなぜ苦しんでいるのか問う。
そのとき彼らが立ち返ったのはヤハウェだったということか。
これらが創造信仰の前提部分のようなものかなと思ってます。

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創造について(懐疑的な話です)

ヤコブ 1:18は創造信仰を背景にもっている。
宗教を信仰していない僕には神による世界創造を信じるという感覚はなかなか理解できない。
創世記を読んでも、信仰者とはまるで違った解釈をしてしまう。

「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世 3:19)というのは古代人の観察が生きている気がします。
死んだ人は塵に返ってしまう。ならば、人は塵から生まれたのだろう。では、一体誰が人を塵から作ったのか。
そう問うていって生まれた伝承のように思えます。
つまり、古代人なりの科学的な推測が述べられているのだろうと。

「これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから」(創世 2:23)などを読むと、言語からイメージを膨らませて女性が男性からとられたものから生まれたと解釈しているようです。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世 3:12)
「蛇がだましたので、食べてしまいました」(創世 3:13)
この二つの言い訳も面白い。アダムは女のせいにして(つまりそれを与えたのはあなたじゃないか、とヤハウェの責任にしてます)、女の方は蛇のせいにします。

後の方では弟アベルを殺したカインが「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世 4:9)と言ったりします。
創世記は結構ヤハウェに堂々と口答えしますね。創造信仰ってこういうのでいいのでしょうか。
ヤハウェは恐るべき神だと描かれもしますが、このあたりヤハウェはむしろ寛容に接してます。

エバをだましたという蛇ですが、微妙に嘘は言ってないですよね。
ヤハウェは「食べると必ず死んでしまう」(創世 2:17)と言いますが、(すぐには)死にはしない。蛇はその点で大して嘘は言ってない。
この物語は、人間と蛇の間に敵対関係が生じる原因譚になってます。
蛇は、農耕上の害獣だったのでしょうか。嫌われていたのでしょう。

裸を恥だと思うことについてもこの伝承から説明されているようです。
マックス・ウェーバーなどは、農耕にともなう豊穣を祈願するための性的オルギアが関連しているのではないかと論じていたと思います。ヤハウィストはそういったオルギアと競合していて、それを嫌ったのだろうということです。

創世記の冒頭は、無から何か生み出したというよりは、混沌へ神が呼びかけることで秩序が生まれてくるというイメージですね。エヌマ・エリシュに近い。

7日で神が世界を創り上げる。安息日の起源を説明しており、またそこを耕すために人を作ってます(創世 2:15)。
これらは農耕の神話ですね。遊牧民の神話というよりも。
安息日の強調は、たぶん捕囚の影響でしょうか。
つまり人が塵から生まれたというような素朴なイメージから生まれたのとは違って、歴史の影響を受けたものに見えます。

 (アモス 9:7)
 イスラエルの人々よ。わたしにとってお前たちは
 クシュの人々と変わりがないではないかと
 主は言われる。わたしはイスラエルをエジプトの地から
 ペリシテ人をカフトルから
 アラム人をキルから、導き上ったではないか。

ヤハウェはイスラエルの人々だけの神ではなく、他民族までも支配している。
アモスの予言はかなり古い。創世記より古い。世界の創造した神としての性質はこのあたりに由来するのでしょう。
アモスが「彼らが正しい者を金で 貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ 悩む者の道を曲げている」(2:6-7)と預言しているとき、恐るべき神の怒りを語るとき、その矛先は富者・支配者に向いている。
神の恐ろしさというのは、貧しい者の救いだった。
アモスは、現実を見ている感じがするんですよね。人々が苦しんでいる現実を。

そして、現代人が創造信仰を語るときには、すでに恐ろしい神というものが救いであるという感覚は遠く、また人々が苦しんでいるという現実というものから離れて「信仰」という行為が考えられているように感じます。
また古代人が、古代人なりに科学的に考えたであろうこととして理解するのではなく、これは信仰して鵜呑みにするべき世界観として捉えられている感じがします。
ですが果たして古代人は科学に対して頑迷な態度をとるべくして創世記を書いたつもりなのか、ちょっと疑問。

元来はもっとはるかに素朴に、世界の不思議さを説明したような信仰なのではないかと思えるのですが。
創世記を読むと、なにやら色々加わっているような印象を受けてしまってどうも素直に読めませんね。

グズグズ書いてますが、結局創造信仰とはどういうものなのか、踏み込んで考えれてはいないのです。

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ヤコブによるパウロ批判

ヤコブの手紙の著者は、神は一貫して良い物を贈ってくれているのだと主張します。
これはパウロの神学と食い違ってきます。たとえば、

 (ガラテヤ 3:19)
 それでは、律法はなんであるか。
 それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、
 約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、
 かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

 (ローマ 7:7-8 一部)
 …しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。
 たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。
 律法がなければ罪は死んでいるのです。

「むさぼるな」については、まぁその説明でも結構ですが、
じゃあ、律法に殺すなと書いてあったから、殺すようになったのか。
殺すなと書いてあったから、自分の中の殺意が機会を得て、人を殺すようになったとでも言うのか。
神は律法を与えて、人を殺人へ誘惑しているのか。
…という突っ込みができそうな話ですが。

パウロのような律法理解に対して、ヤコブの手紙の著者は「思い違いをしてはいけない」と批判し、神は一貫して良い物を与えてくれているのだ、と言っている文脈なのでしょう。

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ヤコブ 1:18

βουληθεὶς ἀπεκύησεν ἡμᾶς λόγῳ ἀληθείας εἰς τὸ εἶναι ἡμᾶς ἀπαρχήν τινα τῶν αὐτοῦ κτισμάτων.

(口語訳) 父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。

「意図する βουληθεὶς」は受動相アオリストの分詞ですが、諸訳でも能動の意味で訳されてます。
「~したい βούλομαι」の受動アオリスト「私は~したかった έβουλήθηε」などは能動の意味で訳すそうです。ここはその分詞の形です。
「御心のままに」と新共同訳・口語訳・辻学訳・新改訳で訳されていますので、それがベストなのでしょう。難しいので、諸訳の真似しておきます。

「(彼は)御心のままに私たちを真実の言葉によって産んだ。私たちをいわば被造物たちの初穂にするために。」という感じの訳になるでしょうか。

---

おそらく「わたしたち」は「初穂」の捧げ物ように清められている存在なのですよと言ってるのでしょう。
内容的には、 ヤコブ 1:12とつながっているようです。
 (ヤコブ 1:12)
 試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、
 神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

1:12以降は、「試練」は神が与えたものではないことを確認しています。
試練は、各々のもつ欲望に由来し、そうして罪に至るのだと。
試練に耐えたものが「命の冠」をもらうという文脈です。
1:18のニュアンスだと、欲望を抱えた人間がなぜ「命の冠」をもらえるのか、という疑問に答えているようです。
つまり、人間は欲望を抱えている存在だが、「初穂」の捧げ物のように清めてもらえるのだ、と。

「いわば被造物の初穂」という表現は、二つの意味に読めます。

1,被造物のなかでキリスト教徒が「初穂」とされる
 「わたしたち」というのは限定された意味で、キリスト教徒が救われる存在なのですよと説明している。
 「わたしたち」は被造物のなかで最初に清められる存在なのだ、というようなニュアンス。

2,神が清めてくれるので「すべての人」が「初穂」として清められるのだ
 「被造物」という語を用いたのは、清める儀式を行うのは神であることを示すためで、
 神の広大なスケールで清めるので「わたしたち」はやや広い意味に解する。

まぁ、こんなのはどう解釈してもよさそうですが。

なぜそのように神が「初穂」としてくれると分かるのか。
4:13-15では来年のことを計画するだけでも、「主のみこころであれば」などと言うべきだとヤコブの手紙の著者は言ってます。
ここではなぜ初穂とするかどうかの計画について彼が何か言えるのでしょう。

そのような問いについては、ここで「御旨のままに、生み出して下さったのである」と言ってることが効いてくるような気がします。
突っ込まれると「それでは、神の創造にケチをつけるのか」と聞き返すつもりなのかも。もしそうならば、2の解釈の方が良いのかも。

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ヤコブ 1:17 についての雑感

(ヤコブ 1:17)
「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、
上から、光の父から下って来る。
父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」

神は、変わることなく一貫して「良い贈り物」を与えてくれているのだ、というような意味のようです。
「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物」という部分は、当時あった慣用句を引用しているのではないかという説があります。(辻学氏の注解書p74)
もらい物を品定めするなという意味で、「すべての贈り物は良いものだ、だからすべての贈物は完全だ」というニュアンスの言葉ではないかとのことです。

つまり、ここは「これは試練だ」とか「これは罰だ」などと与えられた物を区別するなという意味になるかと思います。
「神は試みたりしない」(1:13 自ら進んで人を誘惑することもなさらない)という時に、批判しているのはどうも神が行ったことについてケチをつける姿勢へのようです。
苦境に陥った時に、「これは神が私を試みているのだ」というようなことを言っていることについて、「思い違いをするな」(1:16)ということのようです。

いや、でも「神から与えられた試練」だと考えている人は、それを甘んじて受け、喜んで耐え忍ぶのではないでしょうか。
なぜその試練を神から与えられたと考えないのでしょう。

ヤコブの手紙の著者は、人が試練に陥って苦しむ原因を、人間の欲望や罪にあるとみています。
問題は人間の方にあり、人間の欲望が原因であるならば、これは欲をはらねば解決できるだろうし、解決しなければならないと考えているようです。
神から試練が与えられたと考えるならば、それはただ甘んじて耐えるべきものになるのでしょう。
試練は「神から与えられたものではない」から行いによる解決が必要である…というか、良い物を与えられているのに人がそれを駄目にしてしまっているのだ、という認識が、彼の積極的な発想につながっているようです。

「神は一貫して良い物を与えているのだ」というヤコブの主張は、
試練は人間を成長させるために神が与えられているのだ、という説明と混同しやすいですが、それでは書いていることを逆に解釈してしまいます。
ヤコブの主張は、あくまで「神は試練を与えていない」ということですので、書いている通りに理解しておきましょう。

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ヤコブ 1:17

πᾶσα δόσις ἀγαθὴ καὶ πᾶν δώρημα τέλειον ἄνωθέν ἐστιν καταβαῖνον ἀπὸ τοῦ πατρὸς τῶν φώτων παρ' ᾧ οὐκ ἔνι παραλλαγὴ ἢ τροπῆς ἀποσκίασμα.

(口語訳) あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

---

辻学氏の注解書を参考にしてます。…間違って引用してたらそれは僕の誤読によるものです。

口語訳は「光の父」と訳してます。
これは光の複数形で、星を指していると考えられているそうです。
七十人訳で「天の星」を指してこの表現が用いられているそうです(エレミヤ 4:23、エゼキエル 42:11など)。
でも、ここは意味がはっきりしないため写本に異読が多いとのことです。

前半の部分は引用句ではないかと見る学者もいるそうです。
Dibeliusによれば、
>この文は「すべての贈物は良く、すべての贈物は完全」、つまり、もらい物の品定めをするなという意味であった
とのことです(辻学氏の注解書p74)。

---

「贈り物」という語は、なぜか違う単語です(δόσις、δώρημα)。
敢えて訳しわけるなら「与えられた物」と「贈り物」などになるのでしょうか。

「である ἐστιν」という動詞が単数です。
なので、「すべての良い贈り物」と「すべての完全な贈り物」の2つあるという意味ではないようです。
では「~と… καὶ」という語は、この場合はどう訳しましょう。
ここは新改訳のように「また」と訳すと、2つあることになるので誤訳になるのではないでしょうか。
καὶは、順接の接続詞なので「従って」と訳してみると、「すべての良い贈り物、従ってすべての完全な贈り物は…」という感じになります。
どうもぎこちないですが。

「すべての良い贈り物、従ってすべての完全な贈り物は、上から、星々の父から下ってくるものである。(彼には)変化や影の廻りはない」という感じでしょうか。

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ヤコブ 1:16

Μὴ πλανᾶσθε, ἀδελφοί μου ἀγαπητοί.

((口語訳) 愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。

Μὴ / Μὴ (~ない) − 副詞
πλανᾶσθε / πλανάω (嘘をつく、欺く) − 動詞: 二人称 現在 受動 命令法 複数
ἀδελφοί / ἀδελφός (兄弟) − 名詞: 呼格 複数 男性
μου / ἐγώ (私の) − 人称 / 所有代名詞: 所有格、属格 単数
ἀγαπητοί / ἀγαπητός (愛する、いとしい) − 形容詞: 呼格 複数 男性

---

「欺かれてはならない、私の愛する兄弟たちよ」という感じに訳せる。

「欺かれてはならない」は変な訳でしょうか。
口語訳、新共同訳は「思い違いをしてはいけない」
辻学訳で「間違ってはならない」と訳されてます。

「欺かれてはならない」の部分は、レキシコンの英訳「欺く deceive」 を訳しているつもりです。
同じギリシャ語は、マタイ 22:29、1コリント 6:9などでも「思い違い」と訳されているので、そちらの方が適訳なのでしょうか。日本語としてはそちらの方がすっきりしてます。

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